「カーネルの森へ」by にしだ わたる
Last updated 2002-05-19


Comfortable English 2002/01/23

コンピューター英語をきっかけとした私の英文との付き合いはすでに20年近くなりますが、ここ最近ようやく分かってきたことがあります。それは「アメリカ人と言えども、全員が良質な英文を書ける訳ではない」という事実です。 私達日本人でも同じ日本語とはいえ、個々人の文章の質には雲泥の差がありますね。 当たり前と言えば当たり前の事実。しかし、意外と意識されていないのではないでしょうか?

私は英文初学者がまず最初に学習すべきことは、この事実ではないかと考えています。というのも、私自身がこの知識を持っていなかったために、随分余計な回り道をしてきた経験があるからです。

今の時代、技術英語が読めるかどうかは技術者にとって死活問題です。オンラインで出回っている膨大なページの中から、自分が真に必要としている文書を選び出し、そのエッセンスを抽出。自分なりに情報を消化し、生きた知識として大脳に固定化しなければなりません。この一連の作業の中で最も重要になるポイントはなんでしょうか?そうです、一にも二にも「優れた技術文書」をリソースとして選ぶことです。言葉は悪いですが、決してカスを選んではいけません

優れた英文技術文書とは、情報が正確に誤りなく書かれていることはもちろんですが、もっと大切なことは英文として読みやすいものかどうか、「Comfortable English」であるかどうかです。日本語に訳すと「気持ちの良い英文」という意味になりますが、この表現には「学歴のあるアメリカ人は論点を簡潔かつ明快に表現することを comfortable と感じる」という背景があります。

ここで問題になるのは「学歴のある」という限定語が付加されている点です。皆さんは「学歴」という言葉を耳にして、どのような印象を持たれますか?私は日本の風潮として、どちらかと言えばタブー、もしくは嫌みな言葉と捉えらているように思います。「人前でそんな言葉をむやみに使ってはいけません」という感じでしょうか。これは日本人の多くが、学歴の価値を社会の中でステップアップしていくための手段としてのみ捉えており、その教育的意義を見失っているからでしょう。

また面白いことに日本で高学歴と言えば「○○大学卒業」を意味していますが、欧米では学位取得者(Ph.D.; Doctor of philosophy)を指します。学歴社会と言われる日本ですが、蓋を開けてみると一流企業と言えども採用しているのは大卒がほとんどです。一方、欧米企業は多くの博士号所有者を雇用しており、「日本企業の低学歴現象」を指摘する経済学者もいます。それではなぜ欧米の企業は高い給料を払ってまで、Ph.D. を採用するのでしょうか?

私の憶測ですが、企業の評価のひとつには本人が Ph.D. を取得する過程で徹底した writing/public speech/presentation のトレーニングを受けている点があるのではないかと考えています。つまり、自分の考えを簡潔かつ明快に表現できる能力です。私のつたない経験からしても、このようなトレーニングを存分に受けることができるのは、大学院しかありません。大学院で徹底したスパルタ教育を受けたアメリカ人の学術論文は、本当に素晴らしい。もちろん全てとは言いませんが、たまに読んでいて思わず溜め息がもれるような「comfortable English の名作」に出会うことがあります。

誤解なさらないでほしいのですが、comfortable Enlglish とは文章のことだけを指しているのではありません。論文の構成、論理の明確さと正しさ、話の展開、起承転結、これらすべてが水が流れるごとく自然に読者に受け入れられる文書のことを表現しているのです。このために、アメリカの一流研究者は推敲に推敲を重ねると聞きます。「学歴のあるアメリカ人」は高学歴を裏付けるだけのトレーニングと技術、そして絶え間ない努力の上に成り立っているのです。

こういう背景を踏まえながらコンピューター英語の世界を観察すると、首をかしげざるを得ないような状況に出会います。この傾向は特にオープンソース界で激しく、中でも Linux 関連文書は最大の問題児です。例えば Linux について情報を求める人達は、まず最初に Linux Documentation Project (LDP) の HOWTO 集を手に入れることでしょう。Linux カーネルソースツリー内部の Documentation ディレクトリに納められた文書も参考にされるかもしれません。しかし、私の目から見るとこの中の大多数の文書は「非常に読みづらいし、著者が何を言いたいのか分からない」のです。これまで読んだ中で、「うん、これは comfortable English だし、タメになった」と実感できたのは "Bootdisk HOWTO" ぐらいしかありません。

難解な文書の著者の多くは、学術論文を書いた経験がない、もしくは writing に関するトレーニングをほとんど受けていないのだと私は考えています。我流のスタイルで書き下ろしているために、英文に無駄が多く論旨も不明瞭になっているのです。問題はこのような未熟な文書群が、野放しになっているどころか、次から次へと増殖している点です。日本では、さらに和訳というフィルターがかかります。ボランティアーの手になる文書ですから、責任を問う訳でもなく誰も敢えて酷評しないのでしょうが、若い人達への影響を考えると事態は深刻です。

よって、日本で後輩を指導する立場にある人達は、まずは「良書のリスト」を示してあげることが必要でしょう。英文読解力が未熟なうちは、英文の善し悪しが判断できないからです。「この英文の意味が分からないのは自分の英語力が未熟なせいだ、もう1回読み直そう」と、悪文相手に苦労している技術者はかなりの数に上ると思います。私自身、どれだけ無駄な時間を費やしたことでしょう。

美術、音楽そして料理と同じく、自分の中に「文章のリファレンス」を持つことが大切です。

IBM-PC そして英語との邂逅 2001/12/24

私が IBM-PC に出会ったのは、今を遡ること・・何年でしたっけ。20年?まぁ、細かいことは良いのですが、当時の日本はパソコン通信の黎明期でした。ところが、肝心の通信ソフトが手に入りません。市販品がいくつかありましたが、値段は当時で数万円以上!とても個人で購入できる訳がなく、もっぱら雑誌に掲載された BASIC 版ターミナルプログラムが利用されていました。しかし、このプログラムがあまりに低機能かつ不安定で困っていたところ、米国のユーザーは IBM-PC 上で最先端の通信プログラムを利用しているという紹介記事を読みました。

当時はようやく NEC PC-9801 が国内に広まりかけていた時期で、IBM-PC のような舶来品は田舎町のショップではお目にかかれませんでした。このため、米国の IBM-PC ユーザーズグループから通信ソフトの入った5インチのフロッピーディスクを慣れない英文メールで送り取り寄せたものです。ここで出会った最初の舶来ソフトが、故 Andrew Fluegelman 氏が作成した PC-TALK です。PC-TALK は全文 BASIC で記述されたプログラムでしたので、ソースリストの読みにくさは筆舌に尽くしがたいものでしたが、ひたすら時間をかけ、ダンプリストが書き込みで真っ赤になるまで解読したものです。

解読の過程で、BASIC での RS-232C 回線の制御法、ログ記録、ファンクションキーマクロ、などのノウハウを吸収すると共に、解説マニュアルとの格闘が始まりました。当時、1ページを読み進めるためには辞書と首っぴきで1時間以上要していたと思います。これは今思い出しても大変辛い作業でしたが、「新しい知識を知りたい」という好奇心が苦労を遙かに上回っていました。PC-TALK の解説マニュアルの読破が終わると、次は既に米国で大流行していたファイル転送プロトコルXMODEM仕様書に取り組みました。こうして、仕様書やソースリストを読んでは、その知識を PC-9801 にフィードバックしてコーディングしていくという日々が続きました。この過程で生まれたのが、SKYTALK、そして SKYFREE です。結局、IBM-PC 自身には一度も触ることなく、ソースリストと技術文書だけを相手に数年間過ごしたと思います。

この数年間の作業は全て独学によるものでしたが、今の私のバックボーンを形成した大変かけがえのない時間でした。また、それまでの私は「日本」という国を意識したことはありませんでしたが、IBM-PC のコンソール画面と、豊潤なソフト/技術文書の世界を通して、初めて「米国」と自分の祖国の違いを思い知らされました。この時感じたカルチャーショックは今でも解消されていないように思います。未だに日本と米国では、「層の厚さ」が天地ほども違うからでしょう。

だからこそ、今の日本の技術者・学生にも英文を読みこなす技術は必要不可欠なのです。英文を書いて話せればもっと良いのですが、まずは「読む」ことから始めましょう。最初は誰しも時間がかかります。私も1ページ1時間でしたから。しかし、この苦しい基礎トレーニングなくして、読めるようには決してなりません。読めないということは、最新の技術を習得できないということと同義語です。昔の高僧は、中国で漢字に「意訳」された仏典ではあきたらず、サンスクリット語の原典を求め、命を賭してまで天竺に赴きました。ネットワークが発達した現在、私たちは命を賭けるどころか、お金もかけずに最新のソースリストや文書を手に入れることができます。本屋では1年も立たないうちに、海外で出版されたテキストの和訳本が発売されるようになりました。しかし、これらの和訳文書は「意訳」どころか「誤訳」されたものが珍しくありません。良書と呼ばれる作品には原著者の spirit が息づいているものですが、その魂を感じるためには、原書を読むしかないのです。

情報はどこに? 2001/12/09

このサイトを訪れた方から時折「この情報はどこで見つけたの?」という内容のメールを頂くことがあります。その度に「いや、どこにも書いてありませんでした。自分で見つけたのです。」とお答えしています。

どうも数多くのプログラマーは「自分が知りたい情報はどこかに書いてあるはずだ」と考えているようです。それは書店で売られている書籍であったり、ネット上で流れているオンライン文書なのかもしれませんが、私の経験からして「本当に知りたいことは書いてない」のです。そういう意味では、教科書と呼ばれている類が一番たちが悪いのかもしれません。私たちは知識を求め、本屋で高いお金を払い教科書を手に入れます。書店にはベストセラーと呼ばれる本が山積みされていますので、多分売れているのでしょう。売れているのなら、わかりやすく求める情報が書いてあるに違いありません。でも、残念なことにほとんどの場合はそうではないのです。

大切なことはどこにも書かれていない」、これはコンピューター、医学、生命科学など分野を問わず普遍的な真実であるようです。私は人様に比べるとかなり長い期間教育機関に身を置いてますが、これまで誰一人としてこの事実を教えてくれる人はいませんでした。真の知識を求め大海原に出るためには、まずこの事実を冷静に認識することが大切です。

Your SysOp is Wataru Nishida , M.D., Ph.D.